実はこの映画の感想を小3時間くらい考えているんだけど、
全然うまくまとまらない。

想像の翼を広げすぎて、本筋からだーいぶ外れた妄想になっちゃってるから、
まとまるはずもないんだけど。

そんなわけで、映画を観てない人はもちろん、観た人にも理解出来ない文章を
書いてしまったので、そのまま載せてみようと思う。(わ~、私ってチャレンジャー!!)
当然、オチはありまへん。
正直、最初と最後だけありゃーいいんじゃね? と思うけどね。
だから、後で書きなおすかもしれないし、書きなおさないかもしれない。
いや、消してしまうかもしれない。
けど、とりあえず。

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時は、キューバのミサイル危機真っ只中の1962年。
舞台はロサンゼルス。
(夜霧のネオンサインさん、すみません。パクリました。てへ)

大学教授のジョージ(コリン・ファース)はある日、長年の恋人、ジムと愛犬を
交通事故で突然亡くす。
葬式に行こうにも、ジムの家族からは「来ないでほしい」と断られてしまい、
(当時はゲイなんて今より認められてないもんね~)
気持ちのやり場がないジョージは、生きている意味を見いだせなくなってしまう。
とりあえず、近所に住むかつての恋人、チャーリー(女・ジュリアン・ムーア)の元へ
駆け込み泣き崩れる。

泣きつかれたチャーリーは、ジョージと別れた後に結婚して子供を産むも夫とは別れ、
子供も自分の元を巣立って(?)しまい、「自分には何も残されていない」と人生に絶望していた。

お互いを慰めあう2人(と言っても、一線は越えない。超える気配もない)。
しかし、ジョージは「死ぬこと」を考えていた。

そんなジョージに近付く若者がいた。
大学の教え子だ。(名前忘れた)
教え子は心の中のもやもやをジョージに吐露し、ジョージに近付いていく。
彼の悩みは「ボクチンってば、もしかしたらゲイなのかも」なのだと観客には分かるのだが、
彼本人は気付かない。もしかしたら、ジョージも気付いていないのかも。

ある夜、ジョージと学生は海で素っ裸で泳ぐ。
彼の若さと肉体を目の当たりにしたジョージは生唾をごっくんと飲むのだが、
物語は、ジョージが言うところの「あるべき姿に戻って」いく。

肝心なところがボヤケているのはネタバレを防ぐため。ごめんちゃい。

ちなみにベッドシーンは出てこない。
あ、ジョージの放尿シーンはある。(音と表情だけだけど。なんか妙に……(ry )

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あぁ、苦悩するコリン・ファースをずーっとずーっと眺めていられるなんて、
なんて贅沢な映画。

と思いつつも、ある疑問を払拭できないまま映画が終わってしまった。

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この映画には、2種類の人間しか出てこない。

ゲイの男たち、そして、母親チックな女たち。
「現在(相手の瞳とか肉体)の中に永遠を見ているゲイ」と
「将来を見据えて現在を生きるしたたかな家庭の妻・母親たち」の2種類。

そして、「永遠」を失った男の苦悩と、家族を失い「将来」を見いだせない女の苦悩が
交錯したとき、やっぱりロマンスは生まれなかった。


”どうしてこの映画には女の人が出てくるんだろう”。

多分、女の人がいなくても成立したんだじゃないだろうか。

ゲイ男にとっての生きる意味と、母親チックな女にとっての生きる意味。
どうしてこの2つを対比させる必要があったんだろう。

ゲイ男と、ゲイじゃない男でもよかったんじゃないだろうか。
ゲイじゃない男の影が薄すぎて、「ゲイじゃない男はいらない。彼らには関心も持っていない」
という声が聞こえたような気がした。

そして、女はすべからく「母親」という要素を持っていないといけないのだろうか、という疑問も
湧いてきた。
これって、女の存在意義は「やっぱり」子供を産み育てること、だという観念に
取り憑かれているせいだろうな、と思った。

トム・フォードの「自分はゲイだけど、保守的なんだ。だから、女性には母親でいて欲しいんだ。
みんな、ゲイ=革新的だなんて思うのは勘違いだぜ」という心の声なんだろうな、と思った。
確かトム・フォードはテキサスの出身。
保守的な土地で育ったがゆえにゲイであることに苦悩してきたんだろうなぁ~。
その点、女の人はいろんな意味で(当時は)男に依存しないと生きていけないから、
結局は男と共に家族を作って生きていく、そしてそれに満足することでしか輝けない、
と思ってるんじゃないかな。


そう考えると、トム・フォードがグッチで革新的なファッションを生み出したと話題になった
あのテラテラしたブラウスは、やっぱり「中性らしさ」を出したことで折り合いを
つけたものだったんだろうなぁ~と思う。

だって、彼は多分、女に「セクシー」なところを見出していなかった。
女はみんな、母親だもん。
母親にはセクシーさを感じないものだ。

でも、あの頃のトムは「セクシー・セクシー・セクシー」とセクシーを連発していた。
いくら仕事のためとはいえ、見えないものは見い出せない。
そこで、中性らしさを狙ったことで、それまでの「フェミニン」とは違うものを
生み出したんじゃないだろうか。
彼はそれに「セクシー」と名付けた。

そしたら、たくさんミューズが現れた。
あのテラテラしたブラウスを着て時代を表現したのはスーパーモデルであり、
マドンナだった。
スーパーモデルは女性から見たらセクシーだったけど、
男の人から見たら、実際どうだったんだろう。
背は高いは、足はデカイ。
美しいけれど、どこかアンドロギュヌス的なものに男の人は生身の女性としてのセクシーさを
見ることができたんだろうか。
モデルが本当に「女」のものになったのは、あのスーパーモデルブームからだと思う。

美しいけれど個性的で中性的なイネス・ド・フラサンジュがシャネルの専属モデルになった時、
それはものすごくセンセーショナルだったけど、それは彼女だけの話だった。
モデルが服を超えたところで目立つことって、それ以前はほとんどなかったんだと思う。
そして、スーパーモデルブームに乗ってきたモデルはほとんどが、「モデル」の延長線上でも
情報を発信し、今までの女とは違うところ、今まで男が担ってところで情報を発信し始めた。

マドンナは既に母親だったけど、そういう意味では「男」だからね。
ゲイにも人気だったし。(今は知らんけど)

やっぱり、女を女からひっぺがしたところに「セクシーさ」を見出そうとしたんだな。

という気がしてならない。

男がフリルなんかを身につけたグラムロックと同じね。
性を超えたところに「セクサーさ」を見る、というかね。

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それにしても、トム・フォードのこだわり方って、いかにもこだわるゲイのこだわりって感じだ。(笑)
ファッションやインテリアにもそれが現れているんだけど、
ジョージが机の上に財布や鍵、洋服、靴を整然と並べ始めたときには、頭がクラクラした。

ありゃー、美意識というよりも、こだわりだ。

今回、私が「あぁ、これってすごい美意識だな」と感じたのは、ジョージ役にコリン・ファースを起用したこと。
彼でなければ、男を見るときの視線の動かし方が陳腐になってたと思うし、
ただのおっさんの苦悩に見えちゃったと思う。
苦悩することでエロティシズムを的確に表現するコリンだけが、あの役を表現できた。
トム・フォードのその美意識の高さには文句の付けようがないと思う。

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