01月18日付 ニュース 社会の報道「阪神大震災10年 心の復興、永遠の灯火 支え合う大切さに思い (chunichi.co.jp)」へのコメント:
阪神大震災のとき、日本にいなかった。
日本にいれば、恐らく毎日のように被災地の様子を見聞きしていたと思う。しかし私がいた場所では、それはトップニュースにこそなったものの、人々の心にいつまでも消えない棘となって残るようなものにはならなかったと思う。かの地ではほとんど地震が起きないのだ。私自身も恐らく、「チリで地震が起きました」と聞くのとあまり変わらない、対岸の火事を見るようなそんな見方をしていたと思う。
その年の3月、地下鉄サリン事件が起きた。
事件が発生したとき、私はやはり日本にいなかった。
その月の末に帰国すると、ニュースやワイドショー、雑誌はその話題で埋め尽くされていた。
正直に言うと、事件発生時は、やはり遠い国で起きた出来事のように事件を見ていた。それは、それが日本で起こりうるとは到底思えないタイプの事件だったので、にわかには信じられなかったからである。そのうえ私は、事件発生時の衝撃を、当時日本で事件を知った人たちと共有しなかった。衝撃とはいえない軽いショックと、「あ〜、日本でもそんな事件が起きるんだー」という感想を抱いたまま、ショック(衝撃)覚めやらぬ日本に戻ると、ものすごい量の情報とうずまく感情に感化されていく自分を感じた。
思えば、1995年は大変な年だったのだ。
9年後の10月、新潟中越地震が起きた。
新潟が両親の出身地だったこともあり、このときは最初から最後までニュースを追いかけた。現地の悲惨な状況や、そこに救いや希望の光を見た感動的な話などなど、すべて見逃すまいとニュースを見続けた。おばの1人が小千谷に住んでいるため、家族は多いに心配した。おばと連絡が取れたのは、地震発生から1週間近く経ってからだった。
今回の災害では、阪神大震災のときに得た知識が非常に役にたったという。阪神で被災した人々が、今度はボランティアとして新潟に駆けつけてくれた。彼らは、何が必要かを知っているし、被災者にとって何が一番ツラいかを実体験として理解している。そして、日本中の人々が実体験には遠く及ばなくても、彼らの経験をそれなりに追体験している。9年前のあの日から、ボランティア活動や災害救助活動、復旧作業の質は飛躍的に向上している。すべてはあの経験があったからだ。
阪神大震災から10年が経った。
その間に、大阪出身の知り合いができた。
その人が小さな地震が起きるたびに、顔面蒼白で震えていたのを私は不思議に思って見ていた。私の中では、「阪神大震災は終わったこと」だったが、その人の中では「まだ続いていた」のだ。私はそれを理解していなかった。それはいわゆるPTSDというやつだ。
新潟中越地震の報道を見たことで、私は少しだけ阪神大震災を理解したように思う。少なくとも、何が起きたか、その一端は覗いたわけだ。そして、被災者の心の苦しみのほんの一部分を理解できたかもしれないと思う。
阪神大震災のとき、日本にいなかった。
日本にいれば、恐らく毎日のように被災地の様子を見聞きしていたと思う。しかし私がいた場所では、それはトップニュースにこそなったものの、人々の心にいつまでも消えない棘となって残るようなものにはならなかったと思う。かの地ではほとんど地震が起きないのだ。私自身も恐らく、「チリで地震が起きました」と聞くのとあまり変わらない、対岸の火事を見るようなそんな見方をしていたと思う。
その年の3月、地下鉄サリン事件が起きた。
事件が発生したとき、私はやはり日本にいなかった。
その月の末に帰国すると、ニュースやワイドショー、雑誌はその話題で埋め尽くされていた。
正直に言うと、事件発生時は、やはり遠い国で起きた出来事のように事件を見ていた。それは、それが日本で起こりうるとは到底思えないタイプの事件だったので、にわかには信じられなかったからである。そのうえ私は、事件発生時の衝撃を、当時日本で事件を知った人たちと共有しなかった。衝撃とはいえない軽いショックと、「あ〜、日本でもそんな事件が起きるんだー」という感想を抱いたまま、ショック(衝撃)覚めやらぬ日本に戻ると、ものすごい量の情報とうずまく感情に感化されていく自分を感じた。
思えば、1995年は大変な年だったのだ。
9年後の10月、新潟中越地震が起きた。
新潟が両親の出身地だったこともあり、このときは最初から最後までニュースを追いかけた。現地の悲惨な状況や、そこに救いや希望の光を見た感動的な話などなど、すべて見逃すまいとニュースを見続けた。おばの1人が小千谷に住んでいるため、家族は多いに心配した。おばと連絡が取れたのは、地震発生から1週間近く経ってからだった。
今回の災害では、阪神大震災のときに得た知識が非常に役にたったという。阪神で被災した人々が、今度はボランティアとして新潟に駆けつけてくれた。彼らは、何が必要かを知っているし、被災者にとって何が一番ツラいかを実体験として理解している。そして、日本中の人々が実体験には遠く及ばなくても、彼らの経験をそれなりに追体験している。9年前のあの日から、ボランティア活動や災害救助活動、復旧作業の質は飛躍的に向上している。すべてはあの経験があったからだ。
阪神大震災から10年が経った。
その間に、大阪出身の知り合いができた。
その人が小さな地震が起きるたびに、顔面蒼白で震えていたのを私は不思議に思って見ていた。私の中では、「阪神大震災は終わったこと」だったが、その人の中では「まだ続いていた」のだ。私はそれを理解していなかった。それはいわゆるPTSDというやつだ。
新潟中越地震の報道を見たことで、私は少しだけ阪神大震災を理解したように思う。少なくとも、何が起きたか、その一端は覗いたわけだ。そして、被災者の心の苦しみのほんの一部分を理解できたかもしれないと思う。
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